2019年パ・リーグのペナントレースは西武の優勝で幕を閉じた。最大の勝因は打力だろう。シーズン終盤には2003年ダイエー以来の100打点カルテット誕生が期待されるなど、リーグ内では頭一つ抜けた強力打線であった。最終的に100打点はトリオに留まったが、リーグで100打点に到達したのはこの3人のみ。打点ランキング上位3人を中村剛也、山川穂高、森友哉の西武3選手が独占した。

セイバーメトリクスでは重要視されない「打点」


従来からセイバーメトリクスでは打点というスタッツはあまり著述の対象とはされてこなかった。その理由として、前の打者がどれだけ出塁してくれるかなど自身の力の及ばない条件に左右されるために真の貢献を測れないことや、チームの得点能力の改善に直結する数字ではないことなどが挙げられる。

しかしせっかく創世記から続いており、連盟からの表彰対象にもなっているスタッツだ。セイバーメトリシャンの常として私も打撃タイトルには興味が薄い方ではあるが、データの乏しい時代から連綿と残していただいたスタッツである。そして時に、個人の能力による打撃スタッツからはかけ離れた、異様な、珍しい数字の出現することがままあり、野球における記録オタクと呼ばれる人の目を引くことが多い、興味深いスタッツでもある。発行枚数の極端に少ない古切手や、キリ番やゾロ目のNo.の入った紙幣、ホーナス・ワグナーの野球カードなどは高値を呼ぶ。人はどのような対象であれ、変わったもの・珍しいものには心惹かれるようである。


異常に少ない打点


①~⑤はインターネット普及前から記録オタクと呼ばれる人に奇妙な記録として親しまれてきた(?)スタッツである。そしてネットが各家庭に普及した時期に現れたのが⑥の怪記録。

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こうしてみると打点が本塁打数の2倍に達しなかった時、あるいはそれに近い状態の時に怪記録として意識されるようである。さらにもう一つのスタッツである打率も高ければより一層味わいを増す。ただし1番打者は打点が少なくて当たり前なので、この手のネタの対象とはならない。最後のポイントとして打席数が多いことも挙げられる。規定打席に達していれば申し分ないところである。

特に③は愛着を持って語られたスタッツである。21本塁打38打点なので自分以外に17人の走者しか還していないことになる。中軸を打ちながら1年間で塁上の走者を迎え入れた数よりも自分で周って還ってきた回数の方が多いというのはやはりかなりのインパクトだ。ただし非常に残念なことに③、⑥は規定打席に達していない記録である。

その点①、②、④、⑤はいずれも規定に達した記録である。木俣の記録も当時としてはまずまずの打率で、33本塁打を放ちながら迎え入れた走者はトータル27人と、なかなかの味わいを見せている。この数え方で行くならば王、掛布はそれぞれ46人、47人を生還させている。確かにこの打率、本塁打であれば100打点を大きく超えそうなものではあるが、この生還数だけを見ればさほどおかしな数字ではないという見方もできる。

昔風に言うならば勝負強い、勝負弱いという表現になるのかもしれないが、王や掛布の打点は少ないと言えるのだろうか。そもそもどのような打点数がクラシカルな打撃成績から見て妥当なものなのか。過去の入手可能なデータから通史的に調べてみた。


状況と出現確率から叩き台を作る


LWTS(Linear Weights)の基本となるすべての状況は24種類に分けることができる。走者が、なし、一塁、二塁、三塁、一・二塁、一・三塁、二・三塁、満塁の8つに、無死、1死、2死の3種類を掛け合わせて24種類となる。

このうち例えば1死二塁の状況を抽出すると、二塁打以上の長打ではレアケースを除き走者は生還する。また、Tangotigerの研究によれば、1死二塁から単打での走者生還確率は50%である。そしてこの状況の出現確率は3.6%である。1死二塁の環境を別の言葉で整理すると、単打のとき50%の確率で打点1が記録され、二塁打、三塁打のとき100%の確率で打点1が記録され、本塁打のとき100%の確率で打点2が記録される状況に、標準的な打者は3.6%の確率で立ち会うことになる。厳密にいえばこの確率は少し変わるがモデル化の際にレアケースを棄却して数字を丸めた。このようにしてすべての状況について出現確率を乗じて期待値を求めたところ、攻撃の各イベントに関して打点生産期待値として以下の数字を得た。


単打 0.20
二塁打 0.405
三塁打 0.62
本塁打 1.62
打数-安打-三振+四死球+犠飛 0.02

総合指標と似たような形になるが、目立つのは打点というスタッツの本塁打偏重ぶりだ。かつての王の「本塁打王を取れれば打点王はついてくる。」というコメントが思い出される。

500打数150安打、打率3割、二塁打30、本塁打20、三振100、四死球70という打者がいた場合、予想される打点(前を打つ打者達が最も平均的な出塁状況を提供した場合)は71打点ほどになる。1番打者であればおそらく実際の打点はもっと少なくなるだろうし、3、4番であればおそらくは多少多く記録される。

このようにして得られた「予想打点」に比べて、より多くの打点(余剰打点)を挙げた打者の歴代上位選手を以下に挙げる。

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生産した余剰打点では2005年の今岡誠(当時・阪神)が歴代最大の数字をマークした。予想される打点に対して60点以上も多くの打点を生産した計算になる。特に40代以下のファンにしてみれば、これは納得の結果と感じられるのではないだろうか。

本来ならばこの原稿はシーズン終了前に公開される予定であったが、この時期になってのお披露目となった。今季、西武の中村がこの中に割って入ることが確定的で、シーズン終了を待つ必要があったからだ。中村が今季稼いだ余剰打点は40.0点。これも今年の西武打線の高い得点力を物語る記録である。中村は2011年に、二項分布による解析で史上最強の単年度本塁打者となったこともあるなど、珍しい記録に関わることが多い魅力的な打者である。今季の活躍を見るに今後もそうした記録の提供が期待できそうだ。今まで縁のなかったところだが、どこかのタイミングでWBCなど国際試合での活躍を見たいところである。


余剰打点生産の傾向


余剰打点の表に関しては昔からスタッツに興味を持たれている向きにしてみるとだいたい想像した通りになっていると思われる。そしていずれのスタッツに関しても、このような余剰打点をたたき出す客観的な理由を持っている。

表内には1949年、1950年の選手が数多くランクインしている。この2年は歴代最大の打撃優位のシーズンとして知られている。守備側の失点阻止能力にやや問題があったことや、長打の時代になりながらもそう簡単に打撃を転換できるものではなかったせいか、各球団の1・2番打者に出塁に特化した打者が並んでいた。またその1・2番の打力も飛ぶボールによって成績が向上し、高い出塁率を示す打者が多かったことなどが理由で、歴代上位20傑まで調べると、この2年から6人が顔を出している。

次に、最上位の今岡、山本一人(近畿)であるが、巡りあわせやチャンスによく打てたことも理由としてあるが、前を打つメンバーが稀有の出塁系であったことが大きな要因であった。

特に1946年の山本は、前を打つ安井亀和、河西俊雄、田川豊の3人の平均出塁率が.403(当時規則)と非常に高く、かつ本塁打が3人合わせて7本と、塁が埋まりやすい条件が揃っていた。普通は自分の前を打つ2~3人のうち1人でも4割を越えればかなり打点生産には恵まれた条件と言える。それが3人の平均がこの高出塁率で、かつこの本塁打の少なさであれば、山本が打席に立つたび塁上が賑やかだったことは想像に難くない。今岡ですらこれほどまでの立場ではなかった。他の選手もこれほどではないが、10傑入りしたどの選手も直近の打順にはかなりの出塁系の打者が配備されている。近年では常に1~3番に優秀な出塁系を揃え続ける日本ハムの中軸(中田翔や小谷野栄一)が優秀な数字を残している。

そもそも打点は偶然や巡りあわせによるブレの大きなスタッツである。少々の偶然の味付けにより相当に奇妙なスタッツの発生する余地がある。


①~⑥の奇妙な記録を予想打点と比べると


ここで、最初に挙げた6つの奇妙な記録を振り返ると以下のような結果となる。

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140試合補正ではなく、「倍率」としての数字(実際の打点/予想打点)を最後に付けくわえてみた。最も驚くべき数字はどれなのかという観点での追加である。この結果、長年親しまれた山内の数字が最も低い倍率を示した。繰り返しになるが、この数字は標準的な出塁状況で打席に入り続けた打者の打点を求めるものである。通常、中軸打者の前には出塁系打者が置かれていることが多いため、余剰打点はプラスを示し、倍率は1.0~1.4倍あたりに集中するのが普通だ。中心打者が1倍を切るということはそれだけで結構レアなものなのだ。

山内のこのシーズンを子細に見てみると、加齢または負傷により欠場がかさんだが、通常は3番打者として固定されていた。後ろの4番は山本一義である。そして現代では考えられないことだが、チャンスメーカーの1番・2番のスタッツはこのようになっていた。

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1番か2番として10試合以上起用された打者はこれですべてである。前半から今津光男、古葉竹識あたりがリードオフとして起用されていたが、現在ではちょっと見られない驚くべき数字である。この1・2番の前は投手であり、山内の打席での塁上は現代の1番打者とさして変わらない走者状況だったことがうかがえる。唯一現代でも1・2番の数字として散見される程度の井上(打率.252、出塁率.336)は後半になって現れた待望のリードオフである。リーグ戦終盤は44試合連続で1番を務めた。

ただし、山内がリードオフマン・井上の恩恵にあずかるには少々問題があった。井上は外野手なのだ。チームの中心である山本一義、プロスペクトの山本浩司(のちに浩二と改名)、若いリードオフの井上がラインナップに並んでしまえば山内自身の入るポジションがない。

山内は8月以後若い井上に出番を譲ったのか健康面に問題を抱えたのか、終盤は出場が限られている。特に最後の22試合はスタメンに名を連ねていない。結果、このような奇妙な打点スタッツを残したままこのシーズンを終えた。後ろを打つ山本一義が459打席402打数で打率.294、21本塁打、66打点、余剰打点+3.84点(1.06倍)と、まだ常識の範囲内のスタッツを残していることから、「山本が還したランナーはほとんど山内?」のようなネタ話がWeb上で流通したこともある。このように、高い場合も低い場合も異様に平均と乖離の大きい数字にはそれぞれ理由があるものである。


歴代で最も勝負強い打者?


ところがごく稀に、理由なくスタッツが奇妙な形をとることがある。以下は1956年に記録された奇妙な記録である。

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取り立てて奇妙なところは見当たらないようにも見えるこの記録。しかしこれは、予想される2.26倍もの打点となった稀有な記録なのだ。154試合制の珍しく多い試合数のシーズンとあって規定打席には達していないが、それでも408打席に立ち358の打数を記録している。最も長く続いた130試合制シーズンの時代では規定打席に達していることになるので、レア度を同列に比較していいだろう。打率.237や56打点といった数字はありふれたものであるため、確かにちょっと見では見逃してしまう。極めておかしな数字であるという実感を伴わない。

ただし、余剰打点歴代2トップの2005年今岡と1946年山本の倍率がそれぞれ1.70倍、2.13倍であることを考えると武智のマークした2.26倍は出色のものである。打率.237で本塁打を記録していない選手が358打数で56打点をマークすることはそれだけ難易度が高いということなのだ。

特に当時の近鉄はピストル打線の異名で知られる名うての貧打線であり、3番を打っていた(このスタッツで3番を打つ時点で打線の弱さは想像がつくと思う)武智にとって、打点を生産する上で有利になる条件はない。特に理由なくマークされたこの記録は、打点というスタッツが巡りあわせに大きく左右される事情をよく表している。もし打点をもって「勝負強い」という概念を肯定するならば、歴代最強の勝負強い打者の1人は、理由なく過剰な打点を生産した1956年の武智ということになる。このような視点で勝負強いうんぬんが語られるのであれば、そして子細に内容を調べたのであれば、当然武智の名は出てこなくてはならないだろう。しかし「勝負強い」などという概念を表に出したコラムや記事では、寡聞にしてそのような例を存じ上げていない。


レコードブレイカーは最近でも


近年になっても2つの決定的な記録がマークされている。一つは西武時代の和田一浩によってだ。

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2007年の和田は、1番打者などではなく中軸で548打席501打数を記録し、18本塁打を放ちながら打点は49にとどまった。打点を除けば相当に優秀な打撃スタッツである。打率.315はリーグ4位。規定打席クリアはもちろん、500を越える打席を記録しながら偏りは中和されることなく、山内レベルの倍率と最大のマイナス余剰打点を記録した。この方面では史上最高・決定版的怪記録と言い切っていいだろう。今後、中軸がこのマイナス数値を越えることは、ルールが変わらない限り無理なのではないだろうか。

もう一つの記録は中日の大島洋平によってマークされた。以下は2リーグ制以後の規定打席到達者の中で、単純に最も少ない打点数をマークした選手である。試合数が少ない・激貧打などの理由で1リーグ時代には年間1ケタ打点の選手も散見されるところであるが、一定数の試合が挙行されるようになった2リーグの時代においては12打点が最少記録として残っている。

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吉田義男は1965年阪神の、松本匡史は1982年読売のリードオフマンである。そもそもこの手の珍記録は投手が打席に入るリーグの1番打者にしか更新のチャンスはあるまい。ちなみに松本と大島は盗塁王を獲得している。

大島の記録は2012年中日のリードオフを務めてのものだが、マニアの間ではリアルタイムでかなりの注目を集めていた。大島は8月終了時点で6打点に留まっていたのだ。残り試合で3打点までに留まれば夢の1ケタ打点達成である。それがならなくとも5打点までで止まれば11打点の新記録である。8月末まで日程を消化して6打点ということはおよそ5ヶ月で6打点。5か月で6点のものが残り1か月と少々で6点以上も稼げるのか、と大いに期待(?)されたものである。

ところが9月に入って雲行きが変わる。打点のペースが上がってきてしまったのだ。5日、11日、22日と打点を記録。夢の1ケタが風前の灯火と心配する間もなく25日に1打点で2ケタ到達。29日に1打点を追加したと思う間もなく30日に何と一挙2打点。記録更新はあまりにもあっさり夢と消えた。よりによってここで2日連続打点やらマルチ打点(という言葉があるのか知らない)やらが出るとは。

大島は1リーグ時代によくいた打点の少ない選手のように投手並みの打力というわけではなく、かなりの強打者である。この年のリーグ最多安打は読売・坂本勇人と長野久義の173本であったが、最終的に大島はあと1本に迫っている(リーグ最多安打と最少打点を同時にマークするような事態も見たかったものである)。吉田、松本の安打数と比較すると、大島の成績は一線を画していることがわかる。2人が欠場もかさみそれほど大きく規定をクリアしたわけではないのに対して大島は全試合出場し、規定打席を185もオーバー。安打に至っては吉田より69本も多い。最終的に打撃ベストテン3位にランクされるような打者でかつフル出場しながらこの記録は珍しがられるのも当然である。結果、余剰打点のマイナスも倍率(打点/予想打点)も、最少打点の2人から見てさえ、かけ離れた数値となっている。

「投手のすぐ後を打つ打者だった」、「違反球時代で投手やその前を打つ打者がまともに出塁できる時代ではなかった」など、偶発的な記録が発生する条件が揃っていたこともある。今後、この年の大島以上に偏った記録が生まれることは期待しにくい。

打撃好調で健康面に問題のない大島が、偶然に偶然を重ねて積み上げた(?)記録が水泡に帰してしまったわけである。お宝の切手やゾロ目が刻印された紙幣の例を引くまでもなく、人は誰しも珍しいものに心奪われる。パーフェクトゲーム直前の27人目に打たれた投手にも共通するが、珍しいものが生まれる直前で消える瞬間というのは残念なものである。


道作
1980年代後半より分析活動に取り組む日本でのセイバーメトリクス分析の草分け的存在。2005年にウェブサイト『日本プロ野球記録統計解析試案「Total Baseballのすすめ」』を立ち上げ、自身の分析結果を発表。セイバーメトリクスに関する様々な話題を提供している。

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