北海道在住の筆者は先日、1933年旭川新聞の記事から全国(旧制)中等学校優勝野球大会北海道大会決勝のスコアを入手した。これは日本野球における伝説の投手ヴィクトル・スタルヒンの、甲子園まであと1勝という試合での投球が記された貴重な記録である。ただ今回、筆者はスタルヒンそのものについて記述を行いたいわけではない。この年代の野球のスコアが残っていることが貴重なのだ。今回はこのスコアから80年弱の間で野球のプレーにどのように変化が起こっているか思索を巡らせたい。

はじめに


先日閉幕した東京五輪において、野球日本代表はついに念願の金メダルを獲得。プロ参加解禁以来、3大会で獲得メダルは銅メダルが1回という、諸条件からすると空白に近い戦果の歴史に終止符を打つことができた。また今回筆者は五輪を視聴する中で、どの競技も変革が大きく、前回の東京五輪当時と比べるとプレー内容が原形を留めていないとまでに感じる場面も多かった。比較的変化幅の小さそうな陸上競技・競泳ですら50年も経てば進歩の積み重ねにより一見して別物である。特に球技は陸上の比ではないほどの変わりようで、それは野球のプレーにおいても例外ではない。

選手が一般的に持っている基礎能力の向上は、プレーのスピードや強度を向上させるばかりではなく、戦術面にまで影響を及ぼす。時代が進めば、最も適切なプレーの選択や採用される戦術は当然変わってこなくてはならない。

このような事情を端的に表す例として、私の保有する最も古い「スコアの類」である1933年の旧制中学野球北海道大会決勝におけるヴィクトル・スタルヒンの投球記録を掲載してみたい。現在はここから80年弱が経っているが、当時のスコアからどのようにプレーが変化しているかを読み取ることができるだろうか。

またここでスタルヒンの記録を想起したもう1つの理由としては、ほぼ純然たる外国人部隊であるイスラエル代表を五輪で拝見したことも関係している。いずれはスタルヒンやダルビッシュ有のような立場にある者が、日本代表の前に立ちはだかる可能性も十分ありえるのである。


後攻・北海中学の攻撃(スタルヒンの投球)


当時、野球のプレーを記録する形式として、まだボックススコアの類はなかった。試合展開の記述は現代のテキスト速報のように、起きた事象を起きた順番にベタ打ちする体裁である(ここでは便宜上の問題で表にしている)。

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以下は旭川中の対戦相手・北海中の攻撃、つまりスタルヒン投球時の記録である。注目したいプレーが現れ次第、解説を行っていきたい。

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(※1)4回裏 二ゴロ失策で打者走者が一挙に本塁生還

ゴロ失策(悪送球)により打者走者が生還という現代の野球では想像しづらいプレーが発生している。謎のプレーだ。おそらくは二塁手の悪送球に加え、カバーした誰かが再度悪送球を行ったダブルエラーと思われるが、当時の記載方法では詳細が不明になっている

(※2)4回裏 右安打で一塁手失策のために三塁進塁

これも謎のプレーだ。二塁へ向かった打者走者を刺そうとしての悪送球か、右翼からの返球を内野手が大きく弾いた等の事象かと思われる。右前安打で一塁手のエラーというのは現代野球では極めてレアなケースでイメージがわきにくい。現代であれば右翼からの返球はまず二塁方向に行うはずで、一塁手は返球に触ることすら稀であるためだ。

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(※3)5回裏 スクイズ失敗により三塁走者が本塁憤死

記事ではここでイニング終了となっているが、これではまだ2アウトである。3つ目のアウトの可能性としては、

① 2ストライクからの三振併殺
② スクイズ空振りで走者アウトの後、打者が打ち取られた
③ 打者はフェアゾーンに転がしたが走者封殺・打者走者は一塁に生きて次打者凡退

以上の3通りの事情が考えられるが、①はどの時代でも珍しい事態であるため②か③の事象が発生し、記載が漏れたものではないだろうか。


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6回は内容がわからないが無得点に終わっている。ただし、7回の北海中の攻撃が9番の濱から始まっているため、5回が②の事情で終わっていれば1人、③の事情で終わっていれば2人の走者が出ていたことになる。なお、試合終了までこの記事の記載では安打が3本であるが、他の書籍では4安打と記載されているため1安打はこの回に出ていると推測できる。5回表から7回表までの間は記者が記録を取りにくい事情があったか、それとも紙幅の関係か記載があっさりしており、他のイニングとはトーンが異なる。この間、記者が電話等でどこかへ何かの連絡を取った可能性もある。固定電話が球場に1台ある程度の状態の上、1人の記者が何役もこなさなければならないような時代ゆえの記録である。

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(編集部注:初出時、7回裏坂上の打席における補足に抜けがありました。現在は訂正しております。申し訳ございませんでした。)

後攻の北海中が勝利したため、9回裏の攻撃はない。ではこれらの記録をまとめたものを使い考察を行っていこう。

北海中学の攻撃では内容の確認できるアウトが16個、確認できないアウトが8個ある。また、内容の確認できる出塁として安打3本・四球4個・失策出塁が3個ある。ほかに詳細の確認できない出塁が1個または2個あり、これに安打1本が含まれる。旭川中側の失策は確認できるだけで5個あった。確認できる16アウトの内訳は以下のとおり。

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失策の内訳は一塁手・二塁手・三塁手・遊撃手・捕手の5人が各1個ずつ。後年に発表された伝記で失策数は11とされているが、これは捕逸を失策に含めているほか、今回ソースとした記事からはイニングを特定しにくい隠れた失策があるようだ。

全体の守備成績をまとめると、ゴロ処理数と失策数が1:1。現代の野球を知るものからすると、失策が多く感じられるかもしれない。内容はゴロを取り損なうより、悪送球が主である。現代の内野手が感じるのに比べ、当時の野手にとってダイヤモンドは広すぎるものだったということだろう。野球が強くない公立高校出身の読者であれば、高校時代に野球部の応援に行った際、ショートゴロをアウトにすることが意外と難しい実感をもった人もいるかもしれない。この試合の記録からはそういったプレーが思い出される。

またバッテリーエラーとして捕逸が2回発生しているほか、盗塁は6回の企図ですべてセーフ。スクイズは3回トライして2回成功しているが、盗塁が容易だったせいかその他の犠打は記録されていない。

旭川中は失策出塁3以外に、盗塁を許すまたは悪送球などのミスのために、確認できるだけで延べ17ベースの余分な進塁を奪われている。また盗塁成功は100%。これだけ自由に走者を進められれば、長打を狙う必要性が小さいのは自然のことである。

ただエラーが多く記録されているのは事実だが、これは両校勝ち進んでの顔合わせである。つまり北海道の頂点を極める大会で、両校は弱小校などではない。たまたまこの日にエラーが集中したこともあるかもしれないが、守備力はどこも似たようなものだったのではないかと推測している。走者の進塁を抑える守備力については特にそうだ。

当時の旧制中学の練習環境は現在のように整備されたものではなかったはずだ。打撃・投球練習は多少荒れたグラウンドでも可能だが、守備は環境が整わなければ十分な練習が難しい。当時、まともな野球グラウンドをどの程度の学校が持っていたかも疑問である。用具も貧弱なものであるため、そもそも捕球にかなりの困難がついて回っただろう。近年よりもはっきりと劣る環境の中で行われたプレーであるため、現代の試合とはまったく異なる様相を呈していたとしてもおかしくはない。それは以前の東京五輪と比べ大きく変化が起こっていることと同列のことなのだ。

近年のプロ野球では新たに就任した監督などがインタビューされた際など、お題目のように「守備を重視し」「走塁と守備を中心に強化する」「ミスのない野球を」といったコメントをしている。このコメントのもとになる守備が重要であるという共通理解は、この頃のようなロースコア時代に培われたと思しき常識である。

仮に現代の得点期待値の視点からこれらの守備をまとめると、旭川中が許した17ベース(以上)の余分な進塁は、3.6得点相当(以上)にあたる。これは北海中の打撃によって積み上げられた期待値よりもはるかな大きな値である。改善の余地が大きな部分ほど改善は容易で成果を得やすい。この時点で第一に取り組むべき課題は守備であると考えるのは当然のことだ。

またすでに述べたとおり、盗塁はほとんどフリーパス状態となっている。一塁に生きることさえできれば、二塁または三塁への進塁が確約ともなれば、効率の良い攻め方もずいぶん変わってくるだろう。さらにこの試合では外野まで打球がなかなか飛ばない状況だったのだ。攻撃側はゴロ打ちを推奨するしかあるまい。セイバーメトリクスの視点が導入された現代野球において、ゴロ打ち戦術は得点を奪うのに効率的とはされていない。ただこの当時の背景を考えれば、ゴロ打ちを推奨するのは極めて自然なことだ。いついかなる時も普遍的に正しい戦術というものはないのだ。



旭川中学の攻撃


次にスタルヒン擁する旭川中学の攻撃時の記録を見ていこう。攻撃時は1イニングずつを追わず、まとめた記録で見ていくこととする。

旭川中学の攻撃では27アウトのうち17アウトの内容が判明している。内訳は8個が三振・9個がインプレーの凡退、ほか10アウトは詳細不明である。

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この中で注目すべきは2本の三塁打になるだろうか。安打3本のうち2本が三塁打となっている。両軍合わせて2本だけの長打はともに旭川中の1番打者・吉田によって記録された。初回は先頭打者として、8回は四球の走者を一塁に置いて三塁打を放ち、いずれも次打者のスクイズで生還に成功している。チームは3得点であったため全得点に深く関与したことになる。また吉田は遊撃手で、自軍守備がガタガタになっている中、併殺まで奪った。攻撃・守備両面で図抜けた野手だった様子をうかがわせる。

なお、試合も押し詰まった旭川中8回の攻撃、3点ビハインドの1死三塁でスクイズを選択したのは時代を感じさせられる。期待値の考え方は当時まだ浸透していないようだ。考案された当時には正しかった戦術も、ちょっとした変化でいつの間にか最適解ではなくなっていることがままある。戦術の是非について定量的な振り返りによりアップデートし続けることは、現代の球団においても必須のことである。



いくつかの時代背景について



今回の記事のソースは地方紙の旭川新聞である。ただ当時は全国紙であっても新聞は厚いものではなかった。スポーツ面は社会面と同じ面にあり、外信も該当する面に掲載されていた。そのため旭川中対北海中の試合の隣の記事は「ガンヂー氏夫妻を逮捕 全印に反英抗争再燃」となっている。

記事中には「聖雄ガンヂー氏」と相当なリスペクトをもった肩書記載がある。日本が米英と敵対しつつあったこともあり、国内世論はインド乗りであったことを想像させる。しかしこのような記事ですら10行程度のあっさりとした記述である。勝敗が国家なり社会なりに影響を及ぼすわけではない中学野球の結果を、試合展開まで掲載したことはとんでもないことで、いかにこの試合に旭川市民の注目が集まっていたかがわかる。


スタルヒンはこの試合の翌年、1934年に旭川中学を退学して職業野球に身を投じることとなるが、その時点で学齢は今の高校3年生。18歳である。しかし、記録によれば退学の時点で旧制中学5年生制度の中の3年生。卒業までにまだ2年以上の年月を必要としていた。入学の時点で2年遅れていたのだ。この頃の甲子園は、年齢制限等が今と比べてファジーなところもあったとはいえ、職業野球入りしなかった場合に翌年以後も投げられたかは不透明である。

当時、上の学校に進む年代やルートは一様ではなく、入学や卒業の年齢がバラけることは普通にあった。例として熊本工業で甲子園準優勝の川上哲治投手と吉原正喜捕手は同学年バッテリーで同じ年に巨人入団となっているが、吉原が高等小学校経由のルートだったため1歳2か月年長であった。



記事の中でゴロの表記は「匍」になっている。「左飛」の飛がフライアウトを表すのと同様、ゴロアウトを匍と表記して簡略化しているのだ。「匍」は軍事教練における匍匐前進の「匍」。地面を這うイメージからこの文字を使ったのだろう。最初に考案した人の漢字素養の高さが感じ取れる表記である。ただしその後「匍」の文字自体が馴染みのないものとなってしまった結果、この表記方法は歴史的使命を終えたようである。


スタルヒンは191㎝90kgと伝えられているが、米データサイト・ Baseball Referenceでは身長体重欄が空欄となっている。サイトでは公的な数字である徴兵検査の数字を入手・確認の上サイトに載せている可能性があり、徴兵検査を受けていないスタルヒンは公式計測結果が存在しないのかもしれない。ちなみに台湾出身の呉昌征も身長体重欄が記されていない。

当時のスタルヒンは、春先の数字(学校の身体検査?)で6尺2寸、職業野球加入の時点で6尺3寸だったようだ。メートル法で約191㎝。当時のアメリカチームの誰よりも長身である。同年ヤンキースのロースターも確認したが、1試合でも出場したすべての選手はスタルヒンより背が低かった。MLBでもなかなか見なれない大男だったのだ。


道作
1980年代後半より分析活動に取り組む日本でのセイバーメトリクス分析の草分け的存在。2005年にウェブサイト『日本プロ野球記録統計解析試案『Total Baseballのすすめ』』を立ち上げ、自身の分析結果を発表。セイバーメトリクスに関する様々な話題を提供している。
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