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「攻撃」「守備」とは何なのか



野球が他の球技とはきわめて差異の大きな種目であることは理解されていると思う。9つのイニングに分かれていることや、イニングの切れ目で攻撃と守備が入れ替わることなど、特徴的なルールは多くあるが、今話題にしたいのは遠景として一歩引いて野球を見た場合の根源的なあり方である。


まず守備側と呼ばれるチームが自由にボールを扱えるのに対して攻撃側と呼ばれるチームはバット以外のものでボールに触れることを禁じられている。ボールを保持している側が守備側と呼ばれるゼロサムゲームは、私の狭い知見の中では他にクリケットしかない。そして得点はベースを踏むことによって与えられる。ボールによって得点できないのも極めて珍しい球技である。


自分達の攻撃イニングは相手方に絶対に得点が入らない。バスケやサッカーでは攻撃中にボールを奪われ、そのボールをゴールまで運ばれれば即失点である。守っていようが攻めていようが立場はいつでも反対になり得る。これに対して野球は攻守が有機的に結びついているわけではないのだ。必ず相手の攻撃が終わって走者やアウト等の状況がリセットされてから自分の攻撃が行われる。


そればかりか攻撃側と守備側で両者が使用する用具まで全く違う。攻守それぞれで異なる素養を要求されることもあり、互いに異なるスポーツを交代でやっているとみなすこともできる。仮の話だが、アメフトのよう攻撃時と守備時でメンバーを全員入れ替えた(打者は全員指名打者)としてもそれはそれでゲームは成立するであろう。これらの特徴はノルディックコンバインドや十種競技、近代五種などの混成競技に共通するものである。


そこで気になるのが、混成競技に攻撃・守備がないように、「攻撃」「守備」という概念が疑いなく成立するものなのか、という点。野球の得点のカウント方法が現行と異なっていれば、今「攻撃」と呼ばれるイニングを「守備」と呼んだとしてもそれはそれで成立するのではないか。(例:1アウトを1点と数え、一度本塁を踏めばアウト一つが抹消されるようなルール)互いに妨害しあう、という通常の球技の特徴を有するにしても、である。


野球そのものが堅い常識として定着していない時期の人々、つまり野球が見慣れないスポーツであった時代の人にとっては、攻撃・守備の分類が他のスポーツと一線を画すものなのは明らかであったことだろう。初めて野球を見る人が、どちらが攻撃なのか一見して理解するのは不可能である。そのためかオフェンスという言葉は野球の内側の言葉としては長いこと流通してこなかった。ボールを持たない側を「オフェンス」と称するのに抵抗感を持つ人は多かったのであろう。


往年のプロ野球にもそういう感覚を持った人は居たようで、西鉄・大洋等で活躍した三原監督(注1)の言葉に「我々は便宜的に『守備』と呼んでいるだけで、本来は野球に守備というプレーはないんだよ。」というフレーズがある。互いに妨害しつつ複数の異なる種目を行う競技という視点に立つとき、従来言われた戦況に関する言葉、特に「流れ」といった言葉に代表されるような「野球の中の物語」は改めて検証されるべきではないだろうか。「流れ」という言葉に「得点期待値」を代入しても成り立つような言説であればそれは単なるトートロジーであり、評論の形をなしてはいない。



(注1) 過去に遡ってスタッツを見るとき、恐るべきゲーム脳を持っていた形跡を、様々な形で影のように窺うことのできる野球人。長嶋茂雄のように、常識的な視点からは思わずドン引きしてしまうようなエピソードも多々ある。潔癖症で神経質らしく、残された言動からは現代のヲタクとも親和性が高そうである。
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