2022年シーズンはMLBとNPBともにポジティブかつ歴史的な話題に恵まれた。アーロン・ジャッジによる62号本塁打、大谷翔平の規定打席・投球回同時クリア、村上宗隆による56号本塁打がそれにあたる。3つとも最終盤までもつれたものの、すべてが実現して欣快の至りである。ジャッジについてはア・リーグ新という他に、クリーンな打者による実質的なMLB新記録として歓迎する向きも多く、村上については日本人打者により年間55本塁打が超えられたということで、いずれも特別な意味を持つようだ。ただし、私的には大谷の規定打席・投球回同時クリアが最大の関心事であった。子供の頃に「こういうことは今後一切起こらない」と確信したことが、半世紀以上も経ってから実演されてしまったからだ。


1.日米で二刀流絶滅のタイミングが異なるのはなぜ?

昨年からは「毎日が100年ぶり」状態であった。大谷の活躍によって1世紀以上前の記録が掘り起こされ続けたためである。投球と打撃の記録を並べて同時達成は100何十年ぶりであることなどが、今年の夏以後には投打同時の規定到達が1903年以後に限定すれば初の出来事であることがテレビ中継の画面に流れ続けた。

しかし、このような「投打同時の活躍」の報道を拝見していると、MLBでは日本に比べて二刀流の事例が妙に少ないことに気づかされる。かつ日本よりかなり古い時代まで遡らなくては拝見できない。あくまでもプロに限った話だが、NPBでは1950年代前半まで二刀流は普通に存在していたのだ。

代表的な例が野口二郎だ。野口は1939年から1949年にかけて現代の基準で6シーズン、当時の基準で5シーズンに渡って、投打同時の規定到達を実現している。成績も際立ったもので、投手では40勝・19完封、打者では連続試合安打の日本記録(当時)をこの二刀流の時期に記録している。野口以外にも、二刀流でありながら打撃、あるいは投手部門のタイトルを獲得する選手は散見された。

ただMLBにおいては、その半世紀も前の時点で、投打同時規定到達選手は絶滅しているのだ。いかに歴史的地理的にかけ離れた両国の野球とはいえ、19世紀と1950年代では時代が違いすぎる。差が生まれる背景としてどういった事情があったのだろうか。

2.150奪三振&150塁打はサイド&オーバースローの解禁により生まれた

昨年、特に面白いと感じたのは、150奪三振&150塁打同時達成の報道であった。150という半端な数字であるのはその時点の大谷の数字のスケールに合わせたものであろうが、この達成者4人がすべて1880年代におり、そして最後に達成されてから135年が経っている。集中して生まれるのは面白い現象でもあるのでスタッツを確認してみた。

表1に代表的な二刀流成績を挙げてみた。150-150については1883年のジム・ホイットニー投手に始まる黄色く塗った4人が大谷以前の達成者である。1883年から1886年の4年間に集中して生まれている。

実はこの前後は野球における投球の歴史上、最も大きな変革期だった時期である。

    1881年 ・投本間が延長。45フィート(13.72m)から50フィート(15.24m)へ 1882年 ・サイドスロー解禁
    ・8ボール出塁から7ボール出塁へ 1884年 ・オーバースロー解禁
    ・7ボール出塁から6ボール出塁へ

まず1881年に投本間の距離が延長。翌1882年にはサイドスローが解禁。それまでは下から投げるしかなかったが、サイドスロー許可となればオーバースローとそれほど変わらない球速の投球が来ることが想像できる。投手優位が予想されたためか、8ボールで一塁へ歩いていたものが7ボールに変更された。

1884年、大事件が起きる。オーバースロー解禁である。ルールを作る側がこれでは打者にとってあんまりだと思ったか、6ボールで一塁へ歩くものと変更。しかしそれでも打者側にとってはかなり難しい状況になったようだ。1881年の距離延長と連動した動きだった可能性もある。

さてここで表2を見てもらいたい。この表はMLBにおける最多奪三振のシーズン記録ベスト10である。400奪三振超えが6人。中にはほぼアンタッチャブルにも見える513奪三振とチート級記録が燦然と輝いている。

注目すべきは年代である。ノーラン・ライアンとサンディ・コーファクスを除く8人全員が1884年と1886年の記録なのだ。いきなりオーバースローで投げ始められれば、やはり打者は最初の数年、対応することが難しかったのであろう。

さらにこの時代、元からあったナショナル・リーグのほかに、新興リーグとしてアメリカン・アソシエーション(1882-88年)、ユニオン・アソシエーション(1884年)がそれぞれ存在していた。球団数が急激に増加したタイミングでもあったのである。いずれも現在は消滅してしまったリーグだがMLB機構はメジャー・リーグとして扱っている。同様の事例として1913-15年に存在したフェデラル・リーグが挙げられる。1884年にはナショナル・リーグ8球団、アメリカン・アソシエーションが13球団、ユニオン・アソシエーションが12球団と、33球団が存在していた。

球団数の激増は、選手調達の裏付けがなければ相応のリーグレベル低下を招く。例えば球団数を2倍にしたうえでレベルを維持しようとすれば、現役選手と同等の力の選手を同数確保しなくてはならない。しかし現実にはこれは不可能であろう。現在、MLBは人種の壁を撤廃した上にカリブ諸国・アジアからも選手を獲得しているが、いきなり60球団以上への拡張を行えば相当なレベル低下は避けられず、一部球団は存続も難しいことになる。1880年代も事情は同様だ。数年を経て残ったのはナショナル・リーグだけであった。このような事情で、上下に弾けた記録が出やすい条件をはらんだ年代であった。

一例として、10位のビル・スウィーニーは1884年、ユニオン・アソシエーションで374奪三振を記録している。しかし、これ以前の彼は1882年にナショナル・リーグのフィラデルフィアで9勝10敗48奪三振の記録があるだけ。1883年には登板の記録すらない。唐突な大記録はレベルが不揃いとなった当時の事情を反映している。余談だが彼は右投げであることは判明しているものの、左右どちらで打っていたのか不明であるのも時代を感じさせる。

ここで表1の150-150クラブの4人のメンバーを見てみよう。するとやはりこの時代(サイド・オーバースロー解禁直後)の選手ばかりになっていることがわかる。

3.「18.44m」への延長も二刀流絶滅を加速

1887年にも大事件が起きる。投手に対し打者が投げるコースを指定できなくなった。前年までは打者の方が「高め」「真ん中」という風に指示し、投手はそこを狙って投げていたのである。「え?今までの話はそのルールの中での話だったのか?」と聞きなおされそうな気がするが、この時までこれは常識であった。

ルールを定める側は投打のバランスが崩れることを恐れたか、5ボールで一塁へ歩くこととしたほか、この年だけは4ストライクで打者アウト。5球出塁は安打と記録された。正岡子規は1880年代に野球に熱中した日本最初期の野球選手とされるが、活躍時期は野球ルールの大変革期だったようだ。

    1887年 ・投手に対する投球コース指定が不可に
    ・6ボール出塁は5ボールで可能に
    ・この年のみ4ストライクで打者アウト、5ボール出塁は安打と記録 1889年 ・現行と同様の4ボール出塁に 1893年 ・投本間が50フィートから60フィート6インチ(18.44m)に 1901年 ・0・1ストライクではファウルもストライクにカウントする現行のルールをナ・リーグで採用 1903年 ・0・1ストライクではファウルもストライクにカウントする現行のルールをア・リーグでも追随

1889年には、5ボールだった出塁がついに現行同様の4ボール出塁に。1893年には投本間の距離が延長。50フィートから60フィート6インチまで延びた。日本人にとって馴染みのある18.44mはこのタイミングで誕生している。さらには1901年から、0・1ストライク時のファウルは、ストライクにカウントするルールが採用される。

このようなルール上の隔たりがあるために、MLBにおいて歴代記録等を比較する際は19世紀の事柄は除外されることが多い。大概の場合起点となるのは、ルールがさして変わらず、2リーグ制が始まり、かつキリのいい1901年。あるいはルールがほぼ現行に揃った1903年とされる。大谷に関して過去の事例が語られる時「1903年以後では初」の注釈を多く聞くのはそのためである。

そしてこの間の変更のうちでもサイド・オーバースローの解禁と投本間の延長はあまりにも影響が大きく、プレーのやり方や選手の生き残りにも多大な影響を与えた。二刀流が絶滅に向かうのはこのときであったようだ。


Part2へ続く

道作
1980年代後半より分析活動に取り組む日本でのセイバーメトリクス分析の草分け的存在。2005年にウェブサイト『日本プロ野球記録統計解析試案「Total Baseballのすすめ」』を立ち上げ、自身の分析結果を発表。セイバーメトリクスに関する様々な話題を提供している。
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