米球界にもとりあげられる中島卓也の特殊なプレースタイル
今これを書いている時点でWBCの熱戦が続いている。札幌市民としては大谷翔平(日本ハム)と中島卓也(日本ハム)の2人が候補に挙げられながら侍ジャパンに参加できなかったことは非常に残念なことである。早期復帰を願うばかりだが余り無理もしてもらいたくない。複雑な心境である。
このうち大谷についてはその活躍はNPBを席巻し、その知名度は頂点に達した感がある。一方の中島については相当な異能選手であり、よく目をつけてくれたものだと感じている。
公称176cm73㎏のサイズが物語るように、打席ではパワーをほとんど期待できない。見た目以上に、長打の頻度が少ないことでは極端な結果を残している。ただしその変わった活躍はWeb上でも既によく知られているところである。
① 連続打席無本塁打記録 現在デビュー以後2033打席無本塁打。日本記録は赤星(阪神)の2528打席
② 最初から長打を捨てたような驚異的低ISOはMLBのバートロ・コロン投手(ブレーブス)と同等(海外報道)
ISOはIsolated Powerで「長打率-打率」で求められる。要するにエクストラベース/打数で、純粋な長打力だけで打数あたりどれだけの塁を獲得したかの指標である。
この数字がどれほどのものか、どうしてコロンが例に出てきたのか見てみよう。コロンは投手、それも投手としてもかなり貧打の選手とみなされている。2016年に生涯初の本塁打を記録したが、19年間勤め上げた43歳の投手の初のアーチだった(DH制のアメリカンリーグ在籍が長く、302打席にしか立っていないのだが)。ちなみに通算打率は.091、生涯初の四球も昨年やっと記録している。そして本題の彼の通算ISOは.025。中島は、MLBで貧打の投手とされる選手と同等の長打力ということになる。ちなみにMLB時代の野茂英雄(元・ドジャースなど)の通算は.058、2016年のNPB全投手の合算が.022、全野手合算が.124、王貞治(元・読売)の通算が.333。標準的な打者から見れば中島の長打力は1/5程度と見ることもできるだろう。
③ 驚異的なファウル打ち能力と、それにともなって増える「打席当たりの投球数」
長打力を備えていない中島が、生き残るために選択している打撃スタイルは、相当に特徴的なものと見られている。中島は昨年の打率が.243で通算打率も.247、本塁打はさきほど触れたゼロということなので、一見相当な貧打の選手に見えるが…
上はパ・リーグ各球団のレギュラー遊撃手の出塁率である。レギュラーと言える遊撃手がいない場合は、出場の多い順に3人の遊撃手を合算した。これを見ると中島は少なくとも出塁率で他球団の遊撃手に後れをとってはいない。出塁率がすべてではないが、2015年に至っては、遊撃手の中でリーグトップの数字を記録している。この出塁率は、中島自身の打席における忍耐力(ボール球へのスイングを思いとどまる能力)によって高められたと推測される。四球/(四球+打数)は最高で.118、3年続けて1割を越えている。2016年の両リーグ野手平均が.088なので、相当にマージンを持っていることになる。ところがその中島も最初から四球が多かったわけではなく、ようやく出場機会を獲得し始めた2012年は82打席で1四球に留まっている。長打力のない中島がチーム内で地位を得るため、追い込まれたカウントでファウル打ちに特化したことが結果となって表れたと伝えられている。この結果、2年続けて打席当たりの投球数はリーグトップとなり、特に2016年の4.54球は際立った数字であった。また球数を稼ぎにくくする犠打を2015年は34回、2016年には62回も記録しながらの数字だけに、通常の打席ではこの数字以上に投球を費やさせる、厄介な打者だったはずだ。
生き残りのために身につけたとみられるスタイルだが、このスタイルは投球制限のあるWBCの場でこそ生きると思っていただけに、体調不良での辞退は余計に残念なことであった。
④ 守備力
以下は2016年のUZR(Ultimate Zone Rating)である。UZRは守備による失点を減らしたと評価できる貢献を得点換算したもので、UZR/1000はそれを1000イニング当たりに換算した数値である。
改善傾向にあった中島の数値が、ついに安達了一(オリックス)を越えてNPB最高をマークした。イニング当たりの数値ではまだ安達や坂本勇人(読売)には及ばないものの、トータルで稼いだUZRでは堂々の日本一である。数値では何年も続けて高い数値をマークし、歴史的な名手の域に達している坂本・安達両者の上に来ることは、たとえ1年でも大変なことである(注1)。
遊撃手といえば各球団で守備力の看板的な選手が守るポジションであるだけに、守備で他球団と互角に渡り合うためには極めて高い能力を要求されると言っていいだろう。結果、攻守双方に高いレベルを残すことのできる選手は極めて稀にしか存在せず、打てる遊撃手は得難い。このことは先ほどのパ・リーグ遊撃手の出塁率を見ても明らかである。
過去にもいた中島と類似性を見せる名選手
ただし中島のタイプが出場機会をキープし続けることは実はかなり難しい。どの時代にせよ「無本塁打記録」がそうそう伸びることがないのは、本塁打を全く打てない打者がやがては出場機会を得られなくなることが一因となっている。今後の中島についてはどうなのだろうか。過去の例を見てみよう。
まず、連続打席無本塁打で日本記録を持つ赤星憲広(元・阪神)については記憶の明瞭な人も多いだろう。ある程度の攻撃力も要求される外野手にあって、スピードと出塁能力、忍耐力で生き残ってきたプレースタイルは印象に深かった。
そしてさかのぼれば、このタイプは内野手に多くの例を見ることができる。諸般の事情から近年はあまり使われなくなった指標だがIsoD(Isolated Discipline)の数値で抽出してみる。IsoDは「出塁率-打率」で求められ、四死球だけでどれだけ出塁できたかを示す数値である。なお、犠飛の記録が得られない時期があるため、犠飛を分母に含めない旧ルールで統一してみた。
四球以外、打撃でも高い能力で知られる豊田泰光(元・西鉄など)と千葉茂(元・読売など)。結果として極めて高い出塁力に結びついている。豊田は3年連続四球王、最高出塁率2回も記録するなど通算IsoDは.097。千葉は四球王4回、最高出塁率は2回で通算IsoDは.100である。しかし、彼らは強打者としても知られており、四死球を多く取っていなくとも球史に名が残していただろう。
そして通算6,151打数に対して決して多くない84本塁打という成績ながら.102をマークした白石勝巳(元・広島など)。NPB初期からの名遊撃手として、かつてはオールタイムベストナインの候補によく名が挙がったものである。ラビットボール時代だった1950(昭和25)年にシーズン20本塁打を記録してしまったために特徴が薄れてはいるが、そうでなければかなり変わったスタイルの選手としても、もっと知られていたことだろう。通算打率.256で本塁打のあまり期待できない選手が、長打力ゆえに常にマークされ続けた松中信彦(元・ソフトバンク)のや金本知憲(現・阪神監督)の.099を上回るIsoDを記録したのである。
しかし中島にとって乗り越えるべき最も身近なタイプの先駆者を1人挙げるならば、1950-60年代に中日や阪急などで活躍した岡嶋博治になるだろう。
打率の数字を現代の目で見るとかなり低めの数値となっているため、かなり貧打の選手に見えるかもしれないが、当時は低打率が当たり前の投高打低の時代。これで並の打率であることも多く、4年続けて野手のリーグ平均を上回ったこともある。
それよりも注目すべきは出塁率だ。なんと8年連続でリーグの野手平均をクリアしている。現代の常識からは想像しにくいが(特に打率の数字を見たあとでは)最多打席を2度記録していることからも想像できるように、主にリードオフの役割を担った。当時としては十分な出塁能力だったのだ。その主因はやはり忍耐力である。1957年~59年の3年間、連続してリーグ最多四球をマークしている。また、このうち1958年と1959年は盗塁王も獲得しているので、当時としてはかなり強力な攻撃力である。
守備面では、レギュラーポジションを獲得した1956年には遊撃手として守備指標のRRF(Relative Range Factor)(注2)で吉田義男(元・阪神)に際どく迫る好成績をマーク。早くも高い基礎能力の片りんを見せた。その後、三塁手に転出し、後年また遊撃に戻るといった配置転換があったが、一貫して高い数値をマークし続けた。1956年から1963年までレギュラーであったが、この間RRFでマイナスを記録したのは1958年に三塁で記録した1シーズンのみ。8年中7年は守備でチームに利益をもたらし続けたことになる。同時期、三塁には長嶋茂雄(元・巨人)、遊撃には吉田といった歴史的名手が他球団にいたため、リーグ首位は1957年の1回に留まっているが、長い期間プラスを計上し続けており、名手と言い切っていいだろう。なお、現代の常識からするとこのような守備の名手を三塁で使うとは、ずいぶんもったいないことをしているようにも感じるかもしれないが、当時の常識では三塁は守備の花形で、チームでも高い守備能力を持つ選手が守るものだった。
独自のスタイルが袋小路ではないことは、過去の名プレーヤーによって証明されていた。中島はまだ若く、今後長く活躍するチャンスがあり、岡嶋同様に盗塁王も経験している。ぜひこのレベルでのプレーを継続し、岡嶋の活躍年限を大きく越えてもらいたいものである。
知られざる中島スタイルの「怪物」
さて、このスタイルで最も驚くべき活躍を見せた”怪物”がいる。
以下は生涯IsoD歴代トップ5である。
優秀な選球眼のほか、警戒されて四球がかさんだ、強打者として馴染みのある選手の名前が並ぶ。5人中4人だけで通算2,235本もの本塁打を記録しているわけなので、この2位の選手はどんな長距離打者なのかと思うところであろう。
この選手は大映スターズほかで活躍した山田潔である。通算打率.198に通算本塁打8。出場機会に恵まれずに8本塁打に留まったわけではない。これで4,848打席を記録しているのだ。5,000近くの打席を経験して8本塁打にとどまるとケースもなかなかないが、これで(重ねて言うが打率は1割台だ)それほど多くの試合に出場できたというのも逆にすごい。通算出塁率.326に対して通算長打率.245と8分以上も出塁率が上回っている。わずかに出塁率が高い程度の選手ならほかにもいるが、ここまでの大差を記録する選手はいない。そもそも長打の期待できない選手なのだから、投手の側からすればこれはもう絶対に歩かせたくない選手の代表である。王らの4人とは逆で、四球を出すくらいなら打たれても同じ。この状況で歩くとなればそれはほぼすべてが奪い取った四球であり、選球眼と忍耐力は想像を絶するものがある。
そして最も驚くべき記録は1942年の50安打95四球だろう。このとき安打と四球の比率(四球/安打)は1.9に達している。規定打席をクリアして安打を四球が上回った経験を有するのは他に王貞治があるのみで、相対的に最も四球が大きかったのは1974年の128安打158四球で、安打と四球の比率は1.23であった。
最終的に山田は789安打に対して739の四球を記録した。安打と四球の比率は.937である。この数字は王が.858、清原和博(元・西武など)が.634、落合博満(元・ロッテなど)が.622、松井秀喜(元・読売など)が.607である、山田は追随を許していない。
そしてこの山田は守備位置が遊撃手、守備の名手であったことなど、中島との共通点は多い。同時代の同ポジションに歴史的名手がいたために数値ではなかなかリーグ二番手の位置から脱出できないところも似ている。山田には木塚忠助(元・南海など)という存在がいたが、中島には安達という存在がいる。
今となっては山田の数値を狙うことはかえって難しいのかもしれない。しかしようやく現れた山田の系譜を継ぐ選手である。このスタイルを突き詰めて長い現役生活を送ってもらいたい。少なくとも脚力は中島が圧倒的に勝っているのだ。
(注1)安達は今、最も過小評価された守備の名手と言っていいだろう。坂本と安達の守備での貢献はすでに歴史的な水準に達しつつある。このうち坂本は遅ればせながら2016年にゴールデングラブ賞を獲得。多少は報われたと言えるだろう。これに対して安達は上手いという声すらあまり上がっていない。
(注2)RRF(Relative Range Factor):9イニング当たり、刺殺と補殺をいくつ記録したかを表すRange Factorという守備指標の進化形。詳しくは http://baseballconcrete.web.fc2.com/alacarte/fieldingindex.html を参照。