2021-22年は大谷翔平の活躍により、MLBでもかつてないほど投打二刀流の記録が掘り返されたシーズンであった。特に注目したいのが「投打同時規定到達」である。二刀流選手でなければ達成できないこの記録、NPBでは1950年まで見られるが、MLBでは大谷の達成まで100年以上の空白が空いた。なぜ日米でここまで大きな違いが生まれたのだろうか。今回は、大谷以前の最も有名な二刀流選手ベーブ・ルースの二刀流史も振り返る。Part1はこちらから。


4.二刀流選手はいかに失われていったか

二刀流が絶滅に向かった1880年代から少し時代を遡ろう。1880年以前、特にMLB最初期には投手と野手の区分けが明確にあったわけではなく、投手は単なる1つのポジションに過ぎなかったようだ。黎明期の大投手であり、現代に続くスポーツ用品メーカー大手のスポルディング社を現役中の26歳で創設したアル・スポルディングは、1873年と1874年になんと、所属チームの全試合で登板した。1874年は71試合69先発65完投で52勝16敗。617.1イニングを投げ、なんと奪三振はわずか31個であった。この時代の諸ルールを勘案すれば、体力的負担が他ポジションに比べて際立っていたはずもなく、多数の登板が可能だった。投手としての打席だけで現代の規定打席に達する人も散見され、この時代では「投打同時の規定到達」に特段の意義がなかったようである。

1880年代にはルールの変化につれて少しずつ投手の負担が増加。投球可能なイニング数も少しずつ減少してきた。この時代の二刀流は、野手もできる投手が、登板しない日に時折代打や外野手として出場するような形のものであった。それでも、今より少ない開催試合数で50試合や60試合に完投。30試合程度に投手以外で出場するような形で規定には達していた選手はいた(当時は規定打席数ではなく規定試合数)。

そしてサイド・オーバースロー解禁の頃(1882-84年)から、投手・野手の分業は現代の形へと収れんする流れがはっきりとしてくる。投手・野手両方をこなしていた選手も投打どちらかへと専業化するバイアスがかかった。オーバースロー解禁やその後の距離延長とともに打者専業になった選手や、逆に野手となる頻度が激減した選手もいる。変わったのが投げ方のルールである以上当然かもしれないが、投手から遠ざかる人の方が多かったようだ。

その後も散発的に両方を務める選手はいた。しかしほとんどは現在でも見られるスクランブル的な兼業である。負け確の大差試合終盤で投手を使うのがもったいない場合など、「高校の時に投手経験がある」程度の野手がマウンドに上がるようなことは今でもある。昔は他に急な負傷などで投手の都合がつかない場合などもあった。また、投手の側にも年に数回、外野守備や代打等で出場する選手は引き続き存続していたが、1903年頃には後の年代とほとんど変わらない頻度で落ち着いてしまった。その後は例外的な時期を除いて、投打兼業選手は存在していない。

NPBでは少なくとも1940年代までは当たり前に二刀流選手が存在していた。そのためMLBでもそうした時期が長かったのではないかと思われるかもしれない。しかし投手と本塁間の距離が現行のものとなって以後、兼業選手が当たり前に存在していた時代はない。

5.ルーズな運用が行われていた「規定」ルール

1913年の夏場にまた大事件が起きる。アメリカン・リーグとナショナル・リーグの向こうを張ってのフェデラル・リーグの創設である。このリーグ、1914-15年の2年間のみ年間を通じたリーグ戦が行われたものの、その後解散となった。ただし、MLBの合意としてこの2年間のスタッツはMLBのスタッツとして現在でも認められている。

そしてこのフェデラル・リーグで、「投打同時規定到達」が生まれている。達成者はセントルイス・テリアズのドク・クランドル。投手が27試合で、二塁手が63試合、遊撃手1試合、中堅手1試合のほか27回の代打がある。二塁手としての出番が多いことに時代を感じさせる[1]

Part1でも述べたように、急激なリーグの拡張は、レベルの低下と選手不足につながってしまう。1913年まで6年の間にナ・リーグで内野手を15試合経験したことのあるクランドル投手は二塁手のレギュラーとなった。チームで最も多くの試合に出場した二塁手は彼であるため、完全な掛け持ちである。

とはいえ投手出場時以外、すべて野手で出場しているわけではない。そんな彼が「投打同時規定到達」していることが現代のファンの目には少々意外なことと映るかもしれない。所属チームのセントルイスは151試合を挙行しており、現代のルールでは468打席が規定打席になるはず。これに対し、クランドルの打席は348に過ぎない。

実は過去、打撃の規定数ルールは何度も大きく変わっており、当時のルールはチームの試合数の60%の試合に出場することであった。クランドルの出場試合数は118なのでクリアしていることになる。現在でいう規定打席はクリアしていないが、試合数では規定クリアしているのだ。

今考えると穴だらけの規定だが、これに加え運用の際にも、改定の際にもかなり恣意的な扱いを行ってきたようだ。現在、ネット上には1920年以前の規定が、100試合となっていたり、試合数の2/3となっていたり、情報がまちまちとなっている。おそらくはこの原因がこの恣意的運用である。ただし、恣意的な運用とは言ってもその方針で扱い続けられていれば正当性をもってしまうのは民法の例と同じである。

結果、MLBの公式サイトではクランドルは規定に乗った打者としては扱われていない。151試合挙行のうち118試合出場なので、8割近くに出場。当時の基準は試合数だったので、規定に届いていないとする理由が見当たらない。

そしてこれと同じ年、同じルールの下で扱われなくてはならないはずのタイ・カッブは153試合挙行中の98試合出場で規定に届いたものとされ、首位打者を獲得している。対象が試合数なので「不足する打席をすべて凡打だったとしても首位の場合」といった救済措置は使えない。MLB公式ではタイ・カッブを首位打者とはしているが、打率ベスト10の表には出てこない。後世の目で見たときに非常に違和感のある話となるが、公式では矛盾はあってもその時にあったことをそのままの扱いとしているようだ。

私個人としては年ごとに解釈が変わるのはまだあり得ることとして、同じ年で人により運用が変わるのはあってはならないと考える。これに対して独立系のサイト、Baseball Referenceなどでは原則優先で出場試合が60%に達した選手全てを規定に乗ったものとして扱っている。この結果、1918年のベーブ・ルース、1914年のドク・クランドル、1886年のボブ・カルザースらの二刀流が規定に乗っているのか否か、サイトによって見解が割れている。

6.ベーブ・ルースはなぜ投打同時規定到達を達成できなかったのか

そして1914年、大谷以前では最も有名な二刀流ベーブ・ルースの登場である。最初は普通に投手であったが、1918年頃から打撃の側に軸足を移して行く様子が表1の転換期3年間のスタッツからもご理解いただけると思う。1918年はMLB.comでは規定届かずの扱いだが、Baseball Referenceでは規定試合数クリアとして打率ベスト10に名前があるほか、長打率とOPSでリーグ首位となっている。当時のルール運用では投球回で規定に達したシーズンは打撃で届かず、投球回で届けば打撃で届かずと、シーズンごとに入れ替わって同時クリアとはなっていない。

現在のように同時達成に価値を見出していれば、ルースはどこかのシーズンで達成することがあったかもしれない。しかし本人の意識は薄かったようである。時はすでに投打の完全分業の時代となっていた。表1に掲載した3年間の推移を見ると、彼の伝記もので必ず出てくる「投手は打撃練習をあまりしなくてよいと言われた話」、「どちらかに絞るべきと助言された話」、「外野手転向を勧められた話」とつじつまは合っている。この記述とスタッツから、投手と野手の分業は既にこの時代には完全に定着していた様子である。NPBの場合と比較すれば少なくとも30年以上は分化が早かったことになる。情報が伝わるのにそれほど長い時間を必要とするわけでもないのに、日本側が海の向こうの変化に追随していないのは面白い現象だ。

ともあれ、すべての選手のスタッツが明らかになっているのにもかかわらず、誰が規定到達者なのか完全な形ではお伝えできない状況になっている。確かにタイ・カッブなど人気選手が2位以下を引き離して打率首位を走っているような場合、運営側も「ぎりぎり規定に足りていないので首位打者にはなりません」とは言いたくないのも理解できる。「誰が首位打者なのかで揉める」ようなケースでなければきっちりと規定を定める必要性の薄い時代だったことも想像がつく。しかしスタッツの扱いに原理原則が通っていないのはいかがなものかと思う。

なおルース以後、異なるシーズンに投手または打者として活躍する転向組は存在するものの、「同一シーズン投打規定」に近付いたと言える選手はいなかった。


Part3へ続く

    [1]現在でこそ二塁は守備力の高い選手が守ることが多い。内野では遊撃に次ぐ守備的ポジションと考える人も多いだろう。しかし往年の野球において、二塁手はそれほど守備力が重視されていなかった。これは日米問わずである。クランドルの二塁出場が多いのは、野手として守備力が高いと評価されていたわけではなく、比較的難易度の低いポジションとして担当していた可能性が高い。

道作
1980年代後半より分析活動に取り組む日本でのセイバーメトリクス分析の草分け的存在。2005年にウェブサイト『日本プロ野球記録統計解析試案「Total Baseballのすすめ」』を立ち上げ、自身の分析結果を発表。セイバーメトリクスに関する様々な話題を提供している。
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